本から学ぶ1つの形

本から学ぶの1つの形

ヒーローたちが教えてくれる生の道行き

善も悪も自分の立ち位置でしかない【1つのものの2つの側面】

「神にとってはすべてのものが美で善で正である。

しかし人間はものによって

邪だと思ったり正だと思ったりする」(ヘラクレイトス

 

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例えば本を売るのか捨てるのか。


私には「本を捨てる」という選択肢は存在しなかった。

本を手放すことは売ると同義であり、

その理由も明白。


「本そのもの・物語世界そのものが好き」だから。

それが「本が好き」に対する私の意味づけだからだ。

 

手放すと決めたとしても

この世界が消えて無くなることは絶対に嫌だ。

私の記憶の中だけで終わるなんて絶対に嫌。


この本が魂の伴侶となるのは

私の世界だけではない。

数多の人々へ広がり、

いつまでもこの世に残ってほしい。


「本が好き」はこれらすべてを表す象徴の言葉だ。


つまり私は

「本そのもの」の立場に立っている。

世界生み出した作者ではなく、

生み出された世界を愛した。

 

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だから「捨てる」という行為は

「愛する世界を滅ぼすこと」という意味づけになり、

本を捨てる行為も人も

悪逆非道として私の目には映り理解を拒否する。


本を捨てる人は悪として認識されてしまうのだ。

 

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一方で

本を捨てるという選択肢は

作者の立場に立つがゆえの選択肢だ。


古本として売られ買われた本から

作者が受け取る対価は発生しない。

作者が受け取る印税は

売れた本の数ではなく、

刷られた本の数で決まる。

 

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作者のためを思うなら、

古本屋さんへ売るに行くのではなく捨てて、

より多くの人が刷った本を求める循環を起こすのが妥当だ。


持っていた本を捨てて、

また読みたくなったら本屋さんで注文をする。

誰かに薦めたいなら、

本屋さんで注文をしてプレゼントする。


少しでも多く本が刷られるように。

そうして作者にきちんと対価が支払われるように。

支払われた対価が作者の新しい世界を切り開いてくれるように。

その恩恵にあずかれるように。


この視点に立つと

本を売る行為・人こそが悪になる。

 

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本そのものの立場に立てば、

「捨てる」は悪で「売る」は善。

作者の立場に立てば、

「捨てる」は善で「売る」は悪。


だが結局のところ

どちらの立場に立とうとも、

その先にある思いは


「もっと本が読みたい」

その思いが1つだけ。


「もっと(他の世界が書かれた)本を読みたい」

「もっと(この作者が書いた)本を読みたい」


どちらも「もっと本が読みたい」からやっている。

( )の中は違っても

この思いに違いはあるのか?

この思いに善悪は存在するのか?


さらにその先にあるのはもっと単純な1つだ。


「本が好き」


この思いはどちらの立場に立とうが変わらない。

( )すらない。

善悪など、

あろうはずもない。


どちらの立場も

「本が好き」という

1つの思いを表す2つの行動(側面)でしかない。



「本を売る」「本を捨てる」「本が好き」

この2つと1つにあらゆる現状が当てはめられる。


「自分の共同体の主張「他の共同体の主張」「人間(人類)」

「愛護」「害獣」「命」


自身が善悪分けている2つが、

何の1つの側面か。


それを知っていくことは

ヘラクレイトスの言う境地に至る道の1つだ。

 

 

 

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*道行きの友として

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

物語北欧神話 上(ヘルの物語)

『バカヴァット・ギータ』

(クリシュナとヴィシュヌの物語)

(『千の顔をもつ英雄』p66~引用あり)

 

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【英文法】完了形のイメージは「時間の幅」【時制②】

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現在完了形・未来完了形・過去完了形と、

時の名前がついてはいるが、

前回学んだように時制は動詞の形の名前であって

timeではない。


ということを今一度頭に刻んで、

完了形もイメージで理解する。

 

 

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3つすべてに共通しているイメージは

「2つの時を表す、時間の幅」ということ。


現在完了形の「2つの時」は → 過去+現在

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「幅」なので時は切り離されていない。


*比べてみよう例えば【過去形】と

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過去形が表せるのは赤丸の一点のみ。

すでに過去のこととして切り離している。


同様に

未来完了形の「2つの時」は → 現在+未来

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過去完了形の「2つの時」は → 過去+さらに過去

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以上をふまえて個別にみていく。

 

 

 

①現在完了形

イメージは

「過去にした行為や経験を

現在も持っている(have,has)感覚」

意識は「現在(の状態・状況)にある。

立ち位置は現在。

(*そのためyesterdayなど

過去のみを表す単語とは使えない)


他の時制と比べるとわかりやすい。


現在形 → I live in Osaka.

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過去形 → I lived in Osaka.

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完了形 → I have lived in Osaka.

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今住んでいる。昔住んでいた。

昔(~年前から)現在まで住んでいる。


完了形は

ある時点から視点の時点でどうなのか、を表す。

そのためイメージはさらに3つに分類できる。


継続か。経験か。完了か。


継続の場合は

「for~(~の間)」

「since~(~以来)」など

時間の継続を表す語と一緒に使える。


I have lived in Osaka for fastival.

 


経験は過去形と比べるとわかりやすい。


I read this book.

「読んだ」(遠い感覚)に対し、

 

I have read this book before.

「読んだことがある」という現在の視点。


経験ということから頻度を表す

「ever~(今までに~」

「never~(一度も~ない)」

などの語と一緒に使える。

 

 

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*補足:

ever, neverは副詞でもあるので、

have/hasの後ろにおく。

(副詞は名詞以外の語や文を修飾し、

かつ一般動詞に対してはその前につけるから)

 

I have never read this book.

 

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同じく完了のイメージも

過去形を比べるとわかりやすい。


I finished my homework.

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赤丸の一点のみ。

遠い感覚=終わって時間が経っている。


I have already finished my homework.

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幅。視点は現在。

=現在は終わった状態にある。


過去形では過去の「終わった」という

一点のみを表し、

完了形では過去に「終わって」

今現在終わった状態にあると、

視点はあくまでも現在・今にある。


そのため

「just(ちょうど)」「yet?(もう~?)」

「not~yet(まだ~していない)」

などの今の視点に立つ語と使うことができる。

 

 

 

②未来完了形

イメージは

現在の行為・経験を未来にも持っている感覚。

意識は未来(の状況・状態)にある。

立ち位置は未来。


Taro will have finished the work by Monday.


現在の状況・状態をみて、

「未来のそのときは」どうなっているか。


3つの分類のうち上記は「完了」

今の状況から未来のそのときには

それは「完了」しているだろうという感覚。


継続・経験も同様に、今の状況から

「ずっと「やりつづけている」だろう(未来のそのときは)」

「「経験」していることだろう(未来のそのときは)」


現在の状況・状態をみて、

視点はあくまで未来に立つ。

 

 

 

③過去完了形

イメージは

過去にした行為や経験を

さらに前の過去で持っていた感覚。


意識は過去(の状況・状態)にある。

立ち位置は過去。

(さらに前のほうじゃない過去……ややこしや~)


I had beento Tokyo Disneyland 10 times

before I visited it last year.


「昨年ディズニーランドを訪れる前に、

10回行ったことがあった」と、

視点に立つ過去よりも前の過去で経験したことを

視点に立つ過去でどうだったと……


言葉じゃないのよ感じるのよ。


継続も完了も視点は過去。

起こったことはそれよりも前の過去。


継続 → ずっと「やり続けて」いた。視点に立つ過去の時点で。

完了 → 「完了」していた。視点に立つ過去の時点で。

 

 

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*補足:

過去完了形を使うと、

過去の出来事について

「時間差」を表現することもできる。


I lost the watch (過去の視点に立ち)

Taro had given to me for my birthday.(↑よりも過去のこと)


もしこれを

I lost the watch

Taro given to me for my birthday.


とすると、

誕生日にもらったと同時になくしちゃった、

というニュアンスになる。

 

ただし、

「after」や「befor」のように

時間の前後を表せる接続詞があるので、

わざわざ過去完了形を用いなくても

「時間差」を伝えることはできる。


I went shopping after I finished my work.

 

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④完了進行形

イメージは

その行為が完了しておらず、

今もって「継続中」とはっきりさせる感覚。


現在完了形+進行形として考える。


現在完了形は

過去~現在の時間の幅で

過去の行為状況を現在も持っていると

視点は現在にあり、


進行形は

途中の段階にのみ視点をあてる。


I have been learning 10 English words.


これは

「覚えている最中でまだ覚えきっていない」

ことを伝えている。


現在完了形で表してしまうと、


I have learned 10 English words.


現在は覚えた状態であると、

覚えきっていないニュアンスは伝わらない。


現在完了形は

終わっているのか継続しているのか

わからないときがあるため、


「継続しています」とはっきり言いたいとき

完了進行形を使おう。

 

 


⑤否定文・疑問文

have/hasはbe動詞の役目をしているので、

考え方はbe動詞を使う文と同じ。


Taro has not finished his homework.


Has Taro finished his homework?


その昔、

have/hasはbe動詞と同じ使われ方をしていた。

その名残でこのように使う。

 

 


まとめ

完了形の共通イメージは

「2つの時を表す時間の幅」


現在完了形(have/has)は

過去+現在の幅であり、視点は現在にある。


未来完了形(will have)は

現在+未来の幅であり、視点は未来にある。


過去完了形(had)は

過去+それより前の過去の幅であり、

視点は過去にある。


完了進行形(have been -ing)は

現在完了形+進行形であり、

「継続中」であることをはっきりさせたいときに

使える表現である。

 

 

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*学習の友(参考文献)

使用した例文は本書より引用させていただきました。

冬が辛すぎるから冬のいいところを考えてみる

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・虫が出ない

虫を触れない者にとってこれはでかい!

観察するのは平気なのになぜ触れないのか?


触ろうとすると(素手でもティッシュ越しでも)

指先から腕にかけて怖気が走ってしまう。

そして持てないから

紙の上や距離のあるものに

なんとか乗せて外に出すけど、

そのときもこの怖気がやってくる。

(特に動きが速いヤツには……)


嫌悪……というより本能的な拒否

といったほうがしっくりくる。

遺伝子に何か組み込まれてねーかコレ?

捕食された記憶とか。


*太古の生物面白い→

ウォーキングwithモンスター~前恐竜時代 巨大生物の誕生~(吹替版)

 

 

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・雪の降る音・積もる音

あの微かな「サク」や「シンシン」

炬燵の中や暖かい部屋で聞くソレは

とても心地良い。

 

 

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・暖かいところから望む雪景色

雪がイヤなのではなく、

寒い・冷たい・雪かきがイヤなんだな。と判明。

 

 

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・石油ストーブの匂い

冬の匂いの代表格。

生み出される温かさも

熱すぎず寒すぎず心地良い。

枕草子に加えたいくらいや。


……火鉢って暖かいのだろうか?

 

 

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・晴れた朝の空気

汚れなき清廉な空気。

響き渡る鳥の声。


このときばかりは

寒い・冷たいはどうでもよくなる。


そんなものより遙かに感じていたい冷たさ。

 

 

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*炬燵の友に

枕草子 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 

*調べてみると面白い火鉢の世界

手火鉢セット、底砂、底ネンド、火箸、備長炭500G付、セット販売-A

南部鉄器 鉄器灰皿 長火鉢 灰皿セットA

 

*記事top画像

CouleurによるPixabayからの画像

心に乱れがあるなら理由はどうあれ「あるがままの私」「あはれの心」ではない

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『世界の辺境とハードボイルド室町時代』にて

ゲストとホストの関係が出てくるけれど、

これを読んだとて本書の夫婦の立場に立ったら

イライラするし受け入れられないし、

またゲストの立場に立ったとしても

恩義を感じて返礼したくなるだろう。

 

これもまた遺伝子に組み込まれたのか?

それとも日本社会を生きることによって形成された

価値観・常識が生み出す思考か?

 

謎だ\(^O^)/頭パーン

 

だが結局のところ

心に何かしらの乱れ

(ネガでもポジでも)が生じるのならば、

それは「あるがままの私」ではなく、

そして

世界を人を「あるがままに受け入れる」

あはれの心の状態にはない、ということだ。

(それを遺伝子の、ナニカのせいにするのは無意味だ)

 

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*道行きの友として

世界の辺境とハードボイルド室町時代 (集英社文庫)

新装版 ブッダ 全14巻

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

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*記事top画像

Gerhard GellingerによるPixabayからの画像

 

奪った命は血で償うのか? 金で償うのか?

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まったくもって不思議でならない。

なぜ私は「命は命でしかあがなえない」と

何の疑いも無しに思っているのか……。

 

『世界の辺境とハードボイルド室町時代』を読んで、

賠償金で解決するのが普通の世界を知り、

その意図が遺族のためだということも知り、

「命をお金で償う」ことを理解し納得したのに。

 

それでもなお、

「奪われた命は奪った者の命で償わなければならない」

という思いは消えることはなく、

しかもこちらのほうが思いのうえでは上位にある。

 

そもそもなぜ、

こういう思考が私の中に存在しているんだ?

いつこの概念は私の中で形成された?

終身刑がふさわしかろうと結論を出しても、

この概念が消えないのはなぜだ?

 

なぜ仇討ちの物語を平然どころか

当たり前のこととして受け入れているんだ?

 

仇討ちの物語を読んだり聞いたり、

それを賞賛する声を読んだり聞いたりしたからか?

 

いや、それを読んで聞いた時点で、

私は何の疑問もなく受け入れていた。

当たり前のこととして。

  

仇討ちに関して

『世界の辺境とハードボイルド室町時代』では

 

「肉親の命といったものは

お金には換えられないという強固な意識が

日本人にはあるみたいなんですよね」(p.24)

 

と説明が続くが、

 仮にこの強固な意志が

遺伝子の中に組み込まれているのだとしたら……

 

この概念は「本能」ということになるのだろうか?

だとしたら私は……私の思考は……

 

本能に操られている?

 

 

日本人の遺伝子を持ちながら

ソマリランドに生まれソマリランドに育ったら、

命で償うという概念は生まれないのだろうか?

 

 

謎だ\(^O^)/頭パーン

 

 

いずれにせよ、

そんなふうに意味づけをするのなら、

これもまた私が乗り越えるべき

壁の1つとなるだろう。

肉体の先の永遠を知るための壁として……。

 

 

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*道行きの友として

世界の辺境とハードボイルド室町時代 (集英社文庫)

神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源

みんなの進化論

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

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